低コスト・短納期での通信対応体温計開発を実現する音波通信技術

平田 英宇HIRATA Hideie
オムロン ヘルスケア株式会社
開発統轄本部 データシステム事業部 グローバルアプリ開発部
専門:ソフトウェア工学

コロナ禍において体温測定とその記録の需要が高まる中、市場には測定した体温をスマートフォンなどに転送できる通信対応体温計が、ほとんど存在していなかった。体温記録需要の急速な高まりに応えるため、通信対応体温計の開発が急務となったが、一般的なBluetooth通信の場合、ハードウェアの新規設計、生産ラインの新規立ち上げが必要で、コロナ禍での需要にスピーディに応えることができない。そこで、従来の体温計モデルがすでに搭載している、測定完了を報知するためのブザーに着目した。このブザーを用いて、測定データを乗せて変調した音波を送信し、スマートフォンのマイクを用いて受信した音波から測定データを復調する音波通信方式を採用することで、従来体温計モデルからファームウェアの変更のみで通信を実現できることに着目した。本手法の採用により、低コストかつ短納期で通信対応体温計を市場に届けることができ、またBluetooth通信で必要とされるペアリングが不要で簡便に通信できるユーザビリティが実現できた。音波通信技術は、低コストかつ簡便なユーザビリティが求められる新興国向け機器への活用が期待できる。

1. まえがき

オムロン ヘルスケア株式会社では、2021年1月には欧州向けに音波通信対応実測式体温計MC-280B1)を、2021年3月には日本向けに音波通信対応予測式体温計MC-6800B2)を発売しており、市場からは好意的に評価されている(2022年1月28日現在、Amazonでのレビュー評価は5点満点中の4.4。レビュー件数は993件)。

2019年末に始まったコロナ禍は、全世界に体温測定の習慣化と体温計需要の急速な増加を招くと同時に、体温の記録という新たな社会課題をもたらした3)。測定した体温をスマートフォンに転送し記録することが、個人の健康管理や検温報告の利便性を高め、この社会課題の解決の一助になると考えたオムロン ヘルスケア株式会社では、コロナ禍において通信対応体温計の開発が喫緊の課題となった。社会課題に迅速に応えるべく、短納期で通信対応体温計を市場に供給するために、社内で以前より研究を進めていた音波通信技術を採用することとなった。

電波通信が電磁波を用いた通信であることに対して、音波通信は音波を用いた通信である。近年、音波通信技術を用いた実証実験や製品化などが進んできており、身近なところにも音波通信技術が使われるようになってきている。例えば、Google社が2014年に発売したChromecastでは、テレビとスマートフォンのペアリングに音波通信技術を使用している4)

体温計には、もともと測定完了を報知するための圧電ブザーを備えている。このブザーを用いて、音波通信が実現できれば、体温計ファームウェアの実装のみで最速に製品化できると考え、音波通信体温計の開発がスタートした。とはいえ、従来体温計モデルのハードウェアの制約が大きい中、安定した音波通信を実現するには、受信側となるスマートフォンの復調アルゴリズムが特に重要となってくる。

本稿では、音波通信体温計が採用した音波通信技術について、説明する。

2. 音波通信技術の概要と変調方式

音波通信は音波を用いた通信だが、その通信原理は電磁波通信と相違なく、データを電磁波に変調するか音波に変調するかの違いに過ぎない。そのため、変調技術も従来の技術を使用するが、前提として体温計ファームウェアのみで実現可能な変調技術を採用する必要があった。体温計はCPUのサウンドジェネレータ機能を用いて、CPUが生成する矩形波出力をブザーに印加することで、ブザーを鳴動している。変調においてもこのサウンドジェネレータ機能を用いるが、周波数およびDuty比のみが制御可能かつ位相は制御できないという制約を考慮した結果、変調方式には位相を変調要素に持たないASK5)とFSK6)を候補とした。

FSKの場合は変調に周波数の変化を用いるが、体温計における周波数の鳴動誤差が大きかったため採用せず、振幅を変調のキーとするASKを採用した。

ASKは一般的にノイズの影響を受けやすく、長距離の無線通信で利用されることはほとんどないが、今回は通信時に体温計をスマートフォンのマイクに近づける近接通信を前提とした(図1)ため、ASKでも十分な通信精度を実現できた。次章では、この通信所作の策定にあたる検討過程を紹介する。

図1 音波通信イメージ
図1 音波通信イメージ

3. ユーザビリティ

音波通信体温計を製品化するにあたっては、利用者が無理なく通信可能な通信所作の検討が必要である。

ASKを用いた音波通信の場合、振幅の変化が音圧の変化となるため、体温計から発する音圧が通信に十分なレベルであることを確認する必要があった。そのために、まず体温計からの音波の分布を調査し、最も音波通信に適した体温計からの方向(指向性)を調査した(図2)。

図2 体温計の音波指向性測定
図2 体温計の音波指向性測定

①~⑤の方角における音圧とSN比を測定(個体のバラつきを考慮して25サンプルで測定)した結果が図3である。

図3 音圧とSN比の測定結果
図3 音圧とSN比の測定結果

この検証の結果、⑤の方向(体温計の背面)が最も音圧とSN比が良好であり、この部位を図1のようにスマートフォンのマイク部分に押し当てる所作を、標準の通信所作として定義した。

ペンシル型で軽量な体温計ならではの通信所作であり、ユーザビリティ試験にて利用者が問題なく通信できることを確認した。

4. スマートフォンでの音波復調

音波通信体温計から測定データを受信するスマートフォンアプリ(OMRON connect7))は、AndroidとiOSに対応しており、音波通信の復調処理もAndroidとiOS向けに実装している。

4.1 復調処理

図4はスマートフォンにおける復調処理のフローを示したものである。

図4 復調処理
図4 復調処理

4.1.1 PCM録音

スマートフォンのマイクを用いて、音響信号をキャプチャし、PCMデータ列を得る。これは、Android、iOSの機能を利用している。Androidの場合、マイク録音のためのオーディオソースパラメータが複数あり、音波通信に適した(OSバージョンやスマートフォン機種に幅広く適合する)パラメータの選定は特に苦慮した点である。パラメータ選定のために、Android Compatibility Definition Document (CDD)8)の記載内容から仮説を立て、仮説に基づき多岐に渡るスマートフォンでの網羅検証を実施することで、音波通信に最適なオーディオソースパラメータを選定することができた。

4.1.2 周波数帯域フィルタ

ASKなので搬送波となる周波数を中心に、体温計の鳴動周波数誤差を踏まえたバンドパスフィルタ(IIRフィルタ)を構築し、搬送波周波数帯以外の周波数成分を除去している。搬送波には超音波に近い高周波帯を使用しているため、環境ノイズの影響は受けにくい。

4.1.3 AM復調

ASK復調の前段階として、PCMデータから時系列の振幅値への変換を行っている(図5)。振幅値へ変換後の点線はPCMデータピークの包絡線であり、すなわちこの処理はアナログのAM9)復調処理に相当する。

図5 AM復調
図5 AM復調

4.1.4 スパイクノイズフィルタ

AM復調した直後の信号は、図6に示す通り、信号の立ち上がりと立ち下がりに大きなスパイクノイズを含んでいる。

図6 AM復調直後の信号
図6 AM復調直後の信号

これは、体温計のハードウェア設計ならびにブザーの性能が、もともと音波通信を前提としたものではなく、体温計から発する音波が通信には理想的な音響信号となっていないことに起因している。このままでは、後述のレベル正規化に影響を及ぼし、通信精度の低下を招いてしまう結果となりかねない。

ハードウェア設計の変更なしに通信を実現することが本製品の目標であるため、スマートフォン側でこのスパイクノイズを除去し、復調性能を担保する方針とした。

ここでは、複数個の一般的なフィルタアルゴリズムを組み合わせ、最適なチューニングを行ったスパイクノイズフィルタによって、スパイクノイズの軽減に成功している。図7は、図6の信号をスパイクノイズフィルタに通した後の信号波形である。

図7 スパイクノイズフィルタ後の信号
図7 スパイクノイズフィルタ後の信号

4.1.5 レベル正規化

体温計から発せられた音響信号が、スマートフォンでサンプリングされるまでには、空間伝搬による減衰、スマートフォン内部のアンプやゲインコントロールなど、スマートフォン機種固有のものを含む様々な変動要因が存在しており、サンプリングされた信号レベルの水準は一定しない。また、スマートフォンの機種によってはAGC (Auto Gain Control)10)機能によりゲインが自動的に変動して、信号レベルが時間経過で変動することがある。振幅の大きさを以って復調を行うASKにおいては、信号レベルの水準が一定しない場合、High/Low判定のしきい値を一意に定めることができない。

この問題を解決するには、信号レベル値を一定のレベルに正規化する必要がある。図8は、あるスマートフォン機種でのAM復調信号であり、AGCによって信号レベルが時間とともに徐々に増加していることが分かる。

図8 AGC搭載スマートフォンでのAM復調信号
図8 AGC搭載スマートフォンでのAM復調信号

これを一定の時間窓で、最大値を1にする正規化を行うことで、図9のような信号波形に変換できる。AGCによる信号増大が平準化され、信号の最大値が1に正規化されていることが分かる。

図9 正規化後のAM復調信号
図9 正規化後のAM復調信号

4.1.6 ASK復調

レベル正規化によって、振幅値は最大値1に正規化されるので、ここでは0.5をしきい値としてそれを上回っていればHigh、以下であればLowに復調する(図10)。あとはこのディジタル波形をデータに復調するのみである。

図10 ASK復調の対象とする信号
図10 ASK復調の対象とする信号

4.2 音波復調処理のソフトウェアアーキテクチャ

図11は、スマートフォンにおける音波復調処理のソフトウェアアーキテクチャである。音波通信コアエンジンは、AndroidおよびiOSで共通実装となっている。

図11 ソフトウェアアーキテクチャ
図11 ソフトウェアアーキテクチャ

表1は、各ソフトウェアブロックの説明である。

表1 ソフトウェアブロック説明
ブロック 実装に
用いた言語
説明
Android
固有ブロック
Java AudioRecord機能を用いてキャプチャしたPCMデータを音波通信コアエンジン共通レイヤに引き渡す。
iOS
固有ブロック
Objective C AudioUnit機能を用いてキャプチャしたPCMデータを音波通信コアエンジン共通レイヤに引き渡す。
共通ブロック C++ 音波通信コアエンジンである。
C++言語で実装しており、共通のコードベースでAndroid/iOS両方でのコンパイルを可能としている。

特記すべきは、音波通信コアエンジンをC++言語で実装したところである。C++言語によって、Android/iOSを含めOSに依存しないクロスプラットフォームを実現しており、音波通信の復調処理では大量の演算処理が必要だが、C++言語のネイティブコードにより、特にAndroidのJava言語では実現できない高速実行を実現している。

また、音波通信コアエンジンは、音波通信体温計の出荷検査装置にも流用しており、ここでもクロスプラットフォームの恩恵を得ている。

5. 音波通信の精度

スマートフォン機種は多岐に渡り、搭載しているマイクロフォンの性能や、録音処理アルゴリズムの相違もあるため、多くのスマートフォン機種で問題なく通信できることを確認するべく、スマートフォン網羅検証を実施した。

検証方法は、図12の通り1機種あたり、3×2=6通りのパターンで検証を行った。

図12 網羅検証パターン
図12 網羅検証パターン

スマートフォン全197機種(2020年10月時点の日本国内および海外向けスマートフォン)にて、体温計からの40パケットのうち正常に復調できたパケット数の割合を通信成功率とし、通信成功率35%以上を目標として評価を実施した。

通信成功率35%以上を目標とした理由は、以下の通りである。

  • 1パケットの通信時間は約0.7秒であり、5秒間で7パケットの通信が可能である。
  • 通信成功率35%はすなわち失敗率65%であり、7パケット連続で通信失敗する確率は、0.657=0.05、すなわち5%である。
  • このことから、通信成功率が35%以上であれば、5秒以内に95%以上の確率で通信が完了すると考えられる。

表2は、各測定ポイント(奥行×3、高さ×2)における、通信成功率の分布をまとめたものである。目標とする通信成功率を達成できなかった機種は2~5%程度あるが、94%以上の機種で通信成功率80%以上という高い通信精度を達成している。

表2 網羅検証成績
奥行
0cm 2cm 4cm
通信
成功率(%)
機種数 割合(%) 機種数 割合(%) 機種数 割合(%)

0cm ~100% 193 98% 192 97% 186 94%
~80% 0 0% 1 1% 1 1%
~60% 0 0% 1 1% 2 1%
~35% 4 2% 3 2% 8 4%
2cm ~100% 187 95% 186 94% 185 94%
~80% 2 1% 0 0% 3 2%
~60% 2 1% 2 1% 1 1%
~35% 6 3% 9 9% 8 4%

この検証では、一度スマートフォンで採取したPCMデータをwavファイルに保存しておき、復調アルゴリズムをチューニング→wavファイルを用いて復調アルゴリズムの検証を繰り返すことで、復調アルゴリズムおよび各種パラメータのブラッシュアップにも寄与している。

6.むすび

音波通信体温計MC-6800Bは音波通信を搭載した民生製品として、日本国内で異例のヒット商品11)となっており、音波通信の可能性に一石を投じた。音波通信は音波を発するデバイス(今回は圧電ブザー)と、マイクロフォン(スマートフォンには搭載されている)があれば通信できる低コストな通信手段である。そのため、従来の通信対応体温計と比べて、本製品は安価かつ小型化を実現している。今回考案した音波通信方式は変調方式が単純であり、特別なハードウェアを必要とせず変調が可能である。また復調アルゴリズムは、特にスマートフォンで安定した音波通信を実現したものであり、今後は低コストかつ簡便な通信ユーザビリティが求められる新興国向け機器への活用が期待できる。

現時点では通信レートが低く大量データの転送には向かないが、機器ハードウェアの性能向上によって通信速度向上の余地はあるため、今後は大量データの転送に耐える通信プロトコルに改善していきたい。

参考文献

1)
OMRON HEALTHCARE EUROPE B.V. “Eco Temp Intelli IT MC-280B”. OMRON Healthcare Europe. https://www.omron-healthcare.com/eu/thermometers/Eco_Temp_Intelli_IT.html,(参照 2022-01-06).
2)
オムロン ヘルスケア株式会社.“音波通信体温計 MC-6800B けんおんくん”.オムロン ヘルスケア.https://www.healthcare.omron.co.jp/product/mc/mc-6800b.html,(参照 2022-01-06).
3)
飛天ジャパン株式会社.“新型コロナ対策、企業や学校で検温義務化の動き”.飛天ジャパン株式会社 ブログ.https://ftsafe.co.jp/blog/temperature-measurement-mandatory/,(参照 2022-01-28).
4)
スタイル株式会社 WirelessWire News編集部.“グーグルの「Chromecast」,超音波を利用したモバイル端末と連携が可能に”.WirelessWire News.https://wirelesswire.jp/2014/06/16578/,(参照 2022-02-09).
5)
株式会社インセプト.“ASK(振幅偏移変調)とは”.IT用語辞典 e-Words.https://e-words.jp/w/ASK.html,(参照 2022-01-06).
6)
株式会社インセプト.“FSK(周波数偏移変調)とは”.IT用語辞典 e-Words.https://e-words.jp/w/FSK.html,(参照 2022-01-06).
7)
オムロン ヘルスケア株式会社.“OMRON connect Official Site”.オムロン ヘルスケア.https://www.omronconnect.com/jp/ja_def/,(参照 2022-01-06).
8)
Androidオープンソースプロジェクト.“Android Compatibility Definition Document”.Androidオープンソースプロジェクト.https://source.android.com/compatibility/cdd?hl=ja,(参照 2022-01-06).
9)
アイティメディア株式会社.“AM変調”.EDN Japan.https://edn.itmedia.co.jp/edn/articles/1411/26/news015.html,(参照 2022-01-06).
10)
ジャパンメディアシステム株式会社.“オートゲインコントロール(AGC)”.LiveOn.https://www.liveon.ne.jp/glossary/wk/agc.html,(参照 2022-01-06).
11)
株式会社スマート・ソリューション・テクノロジー.“『オムロン 音波通信体温計』が30万台の大ヒット! 企画開発者と技術者に聞いた「音波通信」採用の意外な理由”.SMART SOUND LAB.https://smartsoundlab.com/2022/01/000078.html,(参照 2022-01-28).

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