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人とAIとの共生創発がもたらすHumanity2.0

現在、国が進めるIT政策であるSociety5.0は、現在の情報化社会(Society4.0と定義される)をさらに推し進め、実世界のあらゆる情報をサイバー空間にビッグデータとして集約(デジタルツイン化)し、そのビッグデータに対するAIによる分析や学習・予測を通して生成される高付加価値な情報を、実世界にフィードバックさせようというものである。現在においてもすでにサイバー空間の利用はDXが叫ばれる昨今ではあるが、現実にはコロナ禍もあり、なかなか導入が進まない現状となってしまっている。結果的に、まだまだ実環境からの情報流入は質・量共に少なく、サイバー空間内においても情報の連携などにおいてまだまだ対応が遅れている。

5Gの本格導入や深層学習を軸とする機械学習を基盤として、DXやスーパーシティといったキーワードが新聞雑誌に多く登場する状況を見ても、デジタル後進国と揶揄される日本がその汚名を返上するためにも、現在の動きは決して間違ってはいないと「は」思う。ただし、「は」としたのには理由がある。何か重要な点を見落としていると感じるのである。

「社会(Society)」は実に使い勝手のよい言葉である。人々の行動の総体として創発される「実体なき質感」に「社会」というラベルを付けたものにすぎない。「よりよい社会を作る!」、ということは当然ながら社会を構成する個々人にとってよりよい状況を目指す、という意味だと思いたいが、昨今の世界情勢やサイバー空間で起きている諸問題やAIに対する懸念等を見るに、肝心の個々人が置き去りになってしまっている。社会という総体として捉えることが、逆に個々人をオブラートに包んで見えにくくしてしまうことになってしまっている。そもそも一人一人が基本単位であるにも関わらず、そのような危惧が実際に感じられることの現れとして「人間中心」という強調を敢えてする状況も散見される。

情報過多・情報洪水の問題が指摘されてすでに20年は経過していると思うが、人(ホモサピエンス)としての認知能力は8万年変わらないまま、インターネットやコンピュータの高性能化を背景として、より多くのデータ、より何でも繋ぐことが追求され、SNSにおけるデマ、フェイク、フィルターバブルなど、もはやサイバー空間に人が翻弄される状況が深刻化している。

このままSociety5.0を目指すことが、表面的には利便性が向上するものの、これがもたらす負の面の影響は計り知れない。まだ手遅れ確定ではないと思いたいが、実世界とサイバー空間における「社会」を人々の行動が創発する現象として捉えた上での取り組みを開始する必要があろう。

産業革命にてテクノロジーが急速発展を開始するまでの人類をHumanity0.0とすれば、工業時代に入って人はHumanity1.0にアップグレードしたと言えよう(工業社会はSociety3.0である)。狩猟時代、農耕時代を通して人類は道具を生み出し、道具による効率化により発展してきた。それは、Society4.0に区分けされる情報社会となり、特にインターネットの発明により、道具の性能は飛躍的に向上し、我々の生活は劇的に変わった。しかし、テクノロジーは人の使う道具である、という立ち位置には変わりはない。そもそもテクノロジーとはそういうものだ、という割り切った考え方もある。しかし、その立ち位置は来るSociety5.0においても変わらない、と安易に決めつけてしまってもよいのであろうか。

現在のAIはほぼ機械学習のことを指しており、データから学び動作する。与えられるデータから学ぶことで事足りるのであれば、我々はもっとスマートに生きられているはず。実環境は複雑系であり、学習したことも利用しつつ高い適応能力と汎用性を持ち、何より我々は受動的な道具ではなく、能動的に動作する自律性を有する。

深層学習が飛躍的に画像・言語処理を中心としてその性能を大きく向上させたことで、次世代型AIの実現に向けた研究を進める土壌がおおかた整った。深層学習分野においても、現在が学習されたモデルによる即応的反応が主たる能力であり、これをSystem1と呼び、今後は熟考できるSystem2を目指す動きがある。どの道、相変わらず学習に頼ることから、System1であっても適応性には大きな期待はできないのも、当然の流れであろう。深層学習(学習)のみを基盤とする限りは、System2であっても道具の位置づけからは脱却できない。

では、Humanity1.0はどのタイミングで2.0にアップグレートするのであろうか。タイミングとしてはSociety5.0が実現される頃だと思うが、ただし、個人を主役とする捉え方でのコンセプトとして大きく見直す必要がある。

Society5.0が実現される日常には、自律汎用型AIが社会浸透しつつあり、人とAIとの共生が実現され始めているだけでなく、人自体のマシンとの融合も加速していると想像される。人がAIと共生することで、新たな能力が創発されることから(これを共生創発と呼びたい)、それは人としてのアップグレードを意味する。すなわちHumanity2.0へのアップグレードである。テクノロジーが道具的立ち位置である限りは、道具を使うレベルは人次第となってしまうが、人が自律汎用型AIと共生する状況では、その壁を越えることが期待できる。実際、筆者が関わったTEZUKA2020プロジェクト(https://tezuka2020.kioxia.com)では、人とAIとの共生に向けた取り組みが行われ、共生創発への可能性を感じることができた。

ちなみに、著書「サピエンス全史」や「ホモ・デウス」で有名な歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリが言うところの人間のアップグレードは、人の脳とサイバー空間との接続までを視野に入れていることから、これが実現された際はHumanity3.0ということになろうか。我々はまずはHumanity2.0の実現を目指すことになるが、2.0の次は3.0が待っており、一連のHumanityのアップグレードに向けた取り組みを『Project HumanityX.0』と呼称したいと思う。

さらに、共生創発に関しては、多段階の創発が複雑に絡み合うことが想像される。人体を例にすれば、乱暴な言い回しであるが、細胞レベルが臓器レベルを創発し、臓器レベルが人体レベルを創発し、人体レベルがローカルコミュティレベルを創発し、ローカルコミュティレベルが社会レベルを創発し・・・、というダイナミクスを工学として利活用するための方法論が必要となる。自然界に存在する多段創発系においては階層と階層との間には壁が存在し、これがあることで系としての安定が維持されていると考えているが、インターネットの功罪は、階層間に縦串を通してしまったことなのではと推察している。共生創発の仕組みをデザインすることは、このような多段創発現象の理解・構築・制御方法の確立を意味し、まさに「複雑系社会工学」と呼ぶべき分野の確立にも繋がるのだと思う。

いろいろ妄想を述べてきたが、最後に主張したいことは、上記の考え方は今更であるがSINIC理論と本質的に同じである、ということである。オムロン サイニックエックスも本格稼働中であり、2021年4月1日に筆者は、慶應義塾大学にHumanity2.0実現を目指すことを柱とする共生知能創発社会研究センターを設立させた(https://sites.google.com/keio.jp/hass/)。同じ野望を持つ者同士、徒党を組んで進んで行きたい。

栗原聡写真
慶應義塾大学・理工学部 兼 慶應義塾大学・共生知能創発社会研究センター
兼 電気通信大学・人工知能先端研究センター教授(センター長)
兼 オムロン サイニックエックス株式会社 取締役
博士(工学)栗原 聡

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