誰もが活躍できる"共生社会"とは

オムロンは企業理念に「人間性の尊重」を掲げています。オムロンの創業者 立石一真は、社会福祉法人 太陽の家の創設者である中村裕先生と共に障がい者の積極的な社会進出を支援し、50年前から障がいの有無に関わらず誰もが活躍できる"共生社会"を自ら作ろうとしてきました。

オムロンが描く共生社会とは、多様な人財ひとりひとりが、それぞれの長所や短所を個性としてお互いに受け入れ、認め合い、補い合いながら、個々が自律的に個性や能力を十分に発揮できる社会です。
今回は、共生社会を体現している事例のひとつとして、オムロン京都太陽株式会社で車いすマラソンランナーとして活躍する寒川と島津製作所でラグビー部に所属する中川さんが、スポーツを通じ、自身の障がいを受け入れ、立ち向かい、乗り越えた勇気やチャレンジについて対談頂きました。その模様を紹介します。

 

―障がいを負われた時の状況と、その壁をどう乗り越えたのか教えてください。

寒川:20歳のときにバイクの転倒事故に遭いました。気付いたら4時間くらい意識を失っていて、なぜか足が動きませんでした。そして、立てないよと言われたのが1か月後。当時はかなりショックを受け、かなりしんどかったし絶望もしました。でも、リハビリを続けて少しずつできることが増えていくと外出できるようになって、なんとかなるなぁと思いだしました。そんな中、車いすレースに出会いました。

車いすレースとの出会いは1990年。京都の西大路通りという大きな通りを車いすがものすごいスピードで走っているのを見て、すごく衝撃を受けました。そしていつか僕もああなりたいと思いました。いざ始めてみると、どうしたらもっと他の人についていけるようになるかなとか、普段の生活で何ができるかなとか、レースを通じてすべての物事を前向きに捉えることができるようになりました。自分の中でこれがしたいと思えるものに出会ったことはとても幸せでとても大きなことです。

668_2.jpg京都太陽株式会社:寒川 進

中川:僕は、大学生時代に所属していたラグビー部の試合中に相手選手とぶつかり首の骨を折りました。怪我をしたすぐは意識もあったし会話もできていたけれど、周りから「動くな、動くな」と呼ばれる声だけが聞こえて、そのまま医務室に運ばれ救急車で病院へ向かいました。検査をして、カーテン越しに親と医者が話をしているのをその場で聞いて、下半身不随と言われた時は信じられなくてすごく泣きました。けど、なぜだか治る怪我だと思っていて、治らないわけないと思っていました。だから、悲観的になったり落ち込んだりすることはなく、今でも治る怪我だろうと思っています。しかし、実際に車いす生活を送ると、初めて外に出たときに、周りからすごく見られているような気がして外に出たくありませんでした。そんな時に、当時付き合っていた今の奥さんが、一緒に外に出ようと言ってくれたのをきっかけに外へ出るようになりました。

668_3.jpg島津製作所:中川 将弥

 

―お二人が考える「共生社会」について教えてください。

寒川:簡単に言うと、色々な人がいて普通な世界。でも、普通ってすごく難しいことです。環境の整備も当然必要だし、我々のような障がい者を普通に受け入れている社会というのが共生社会だと思います。

中川:寒川さんがお話する、みんなが普通に、当たり前に思うということは僕もすごく共感できます。環境の面も心の面も障がい者にとっては、まだまだ色々なバリアがあります。僕が事故に遭う前もそうでしたが、普通に生活していると大半の人がバリアなんて意識せずに過ごしています。共生社会を実現するためには、まず健常者の皆さんにそのバリアを気づいて知ってもらうことが必要だと感じています。

寒川:そうですね。でもまずは、周りの人に認めてもらいたいならまずは自分がやらないと。周りの人に理解してもらうために我々の方から歩み寄っていかないとダメだよなと思います。

中川:一重に障がい者といっても目に見える障がいと、目に見えない障がい、そして色々な障がいを合わせ持っている人たちがいます。僕ら側から言わないとわからないことも沢山ありますね。これは学校では教わらないことだと思います。

寒川:障がいの有無に関わらず自分ができないことを人に言うことってすごく勇気がいることです。だから、そういう意味でも言いたくない人もいるだろうし伝えたくても伝えられない人もいます。少なくとも中川さんや僕のように、話ができる人はそういう役割も担っていかないといけないんじゃないのかなと思っています。
中川さんが言う学校では教わらないこと。こういう体験を伝えていくことが大事だと思います。

 

―寒川さんが働くオムロン京都太陽は健常者と障がい者が一緒に働いていますが、苦労などはありますか?

寒川:オムロンは、障がい者の社会参画に理解がある会社だと思います。オムロン京都太陽では、なんの隔たりもなく健常者と障がい者が一緒に仕事をしています。オムロン京都太陽のような場所が社会全体に広がると共生社会がぐっと近づくんじゃないかなと思っています。だからこそそういった環境で働く私が、世の中へ発信することが大切だと思います。また、オムロンは自分自身が取り組んでいる車いすレースにも理解があり、30年もの長い間仕事と競技の両立を可能にしてくれました。そういった意味では、オムロン京都太陽で働けることは僕にとって非常にありがたいことです。

中川:僕も会社にはとても恵まれていると思っていて、現在も所属しているラグビーチームで競技復帰できるようにリハビリの時間をもらうなど、チームや職場の人からも様々なサポートを受けています。だからこそ障がい者と健常者が共生できる社会を作ることに尽力していきたいと思います。

 

―今の夢や目標は何ですか?

寒川:レース一筋!競技のことばかり考えている。今の目標は日本一の50代。そんなことを思いながら日々トレーニングをしています。

中川:僕もラグビー一筋です!何か他の車いすスポ―ツをやろうかなと考えたことはありますが、まだラグビーに未練があります。でも、まだラグビーができないことに葛藤もあります。このように寒川さんのような方とお話ができる機会があると新しい世界が広がるなと感じています。

寒川:僕はですね、今年の夏に石垣島に行ってダイビングをしてきました。足が動かないのにどうやって?って思いますよね?やりたいけど、できないと思って一歩を踏み出すのに尻込みをする人も多いですが、工夫したらなんだってできるんです。障がい者も健常者もみんなやろうと思えば何だってできるんです。

中川:僕もダイビングしたいです!笑

 

―次世代を担う世代へ何か伝えたいことはありますか。

中川:偉そうなことは言えないのですが、ごみが落ちていても平気で通り過ぎる人をよく目にします。気づいていない人、気づいていて拾わない人、色々な人がいます。子どもや学生ができることでさえ、大人がしていない。僕は「気づく」ということが色々なところに繋がると思います。仕事だけできていればいいのではなく、普段の生活から色々なところに気づく、目配り気配りができる人が増えてほしいと思います。それは子供から大人まで共通して意識をすればできることです。そういう些細なところから自分を見つめなおして変わってほしいと思います。

寒川:「気づき」に対してやってみようという、そのサイクルがとても大切です。やってみないと、いいかどうかなんてわかりません。みんなが色々なことにチャレンジをして、世の中が少しずつ良くなればと思います。

 

オムロンには、創業者 立石一真が1970年に発表した未来予測理論「サイニック(SINIC)理論」があります。現在の私たちは、効率や生産性を追求する「工業社会」を経て、物質的な豊かさを手に入れました。そして今、「最適化社会」のど真ん中にいます。「最適化社会」とは、人々の価値観がモノの豊かさから心の豊かさに変わり、そして効率や生産性よりも生きがいや働きがいを重視するように変化していく時代です。それはまさに、"ウェルビーイング"を価値とする社会の到来といえます。そんな社会の実現を自ら手繰り寄せるためのひとつとして、美術や工芸、スポーツなど想像的な分野を通じて寒川さんや中川さんのような自律的な人間形成をしていくことが重要になります。

オムロンは、そんな自律的で多様なメンバーがいきいきと働く場所を社員と一緒につくることで、事業を通じて社会的課題を解決し、社会全体が豊かになる共生社会を目指します。

 

<プロフィール>
寒川 進(かんがわ すすむ)
1968年京都府京丹後生まれ
1989年、20歳のときにバイク事故で脊髄損傷し車いす生活となる。1990年、車いす駅伝の応援に行ったことをきっかけに車いすレースと出会い、競技生活をスタート。2004年に開催されたアテネパラリンピックでは銅メダルを獲得。54歳の今でも日本一という目標を掲げ現役生活を送っている。

中川 将弥(なかがわ まさや)
1996年奈良県御所市生まれ
島津製作所Breakersに所属するラグビー選手。学生時代は、京都産業大学の主将として活躍するも、試合中の衝突により頸椎損傷の大けがを負い下半身不随になる。現在は、競技復帰を目指してリハビリを続け日々奮闘している。

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