企業の公器性と人間を尊重する精神が生んだ「オムロン太陽」 ビジョナリーの視点 -オムロン創業者・立石一真の思考から紐解くイノベーションと企業経営:第八話

8回にわたって、稀有な技術系経営者であったオムロンの創業者、立石一真の思考と思索の跡をたどり、その成長の過程とビジネス哲学の背景を紐解いていく本コラム。

最終話となる第八回目では、社会の中で障がい者が働ける環境が当たり前ではなかった時代に、日本で初めて障がい者が働く福祉工場「オムロン太陽」を作り上げた立石一真の人間の可能性を信じる心と、彼が生涯にわたって追求した「企業の公器性」についてご紹介します。


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社憲の精神と挑戦する心で設立したオムロン太陽

今では障がい者が、様々な職場で活躍する姿を目にします。しかし、1960年代以前には、障がい者が望んでも、働ける環境はほとんどなかったのです。そんな時代に、日本初の障がい者が働く福祉工場として誕生したのが「オムロン太陽電機株式会社」(現オムロン太陽)でした。

一真が障がい者雇用に前向きに取り組むことになったのはある人物との出会いがきっかけでした。それは、身体障がい者の社会参加に大きな関心を持っていた整形外科医の中村裕先生です。中村先生は1971年9月に一真のもとを訪れ、重度身体障がい者の社会復帰に向けた専門工場の建設、運営の援助を依頼したのです。

中村先生は、仕事やスポーツによって身体障がい者の社会参加を促進することに情熱を注ぎ、特に自立するためには職に就くことが最も重要と考えていました。その思いの強さは、1965年に私財を投じて「社会福祉法人 太陽の家」を創設し、自ら理事長となって重度障がい者の職業訓練に打ち込んだことからもわかります。彼は「世に身心障がい者はあっても仕事に障害はあり得ない」という信念の持ち主だったのです。

また、「日本パラリンピックの父」とも呼ばれる中村先生は、日本で初めて身体障がい者のリハビリテーションにスポーツを取り入れて、障がい者のスポーツ振興もはかった人でした。

その努力の甲斐があり、彼は5年間で重度障がい者400名を社会復帰させたのですが、同時に悩みを抱えることになりました。その理由は、せっかく社会復帰しても、企業に就職できたのは、その1割の40人に過ぎなかったからです。その原因の多くは、受け入れる企業側の障がい者に対する意識や、通勤が難しいということだったといいます。

そこで、中村先生が発想したものが「福祉工場」の設立でした。これは、独身寮と家族寮を備えた工場で、通勤しなくても働けるという重度障がい者のための工場です。ところが、中堅企業から大企業まで200社以上を訪ねて依頼してみても、一向に協力してくれるところがありません。皆、リスクが多いとしり込みしたからです。

そのような中で、中村先生が訪れたのが、立石一真のところだったのですが、この提案はオムロンにとっても簡単には受け入れ難いものでした。というのは、このときはオムロンではすでに新たに3つの工場を建設中であり、折しも日本経済に大打撃を与えたドル・ショックの直後でもあったため、経営的に引き受けられる状態ではなかったのです。

それでも、太陽の家の創設者でもある中村裕先生の理念に共感した一真は、両者の名前を冠した「オムロン太陽」の設立に踏み切ります。それは、「よりよい社会をつくりましょう」というオムロンの社憲の精神と、安易な道は選ばず、常に難しいことに挑戦するという一真の信条によるものでした。特にこだわったのは、この事業がチャリティーではなく、障がい者が自らの力を活かして働いて自立する機会を作るという点です。一真は、障がい者が普通に働ける社会こそが「よりよい社会」であると考えたのでした。

ハンディをオートメーションでカバーして初年度から黒字

もちろん、この当時は、障がい者が働きやすい環境など整っていません。そこで一真は、オムロンが得意なオートメーションの考え方をオムロン太陽の工場に取り入れました。つまり「機械にできることは機械に任せる」ということです。そして、身体障がい者が働きやすい生産システムを作るように指示を出し、立石電機の生産技術センターの社員と身体障がい者自身が、共に相談しながら補助機器などを自ら作り上げていきました。

こうして、手が不自由であれば足で使えるペダル、手も足も不自由であれば肘で押すボタンで操作できる仕組みが用意され、その後も、それぞれの障がい特性に合わせた改良が行われていったのです。

オムロン太陽の設立は1972年のこと。同年の4月から創業を開始して、障がい者を特別扱いすることなく、他の工場と同じ条件で働いてもらう経営を行いました。しかし、ほかの工場でも設立当初は赤字がでることがあると知っていた一真は、ここでも2、3年の赤字を覚悟していたといいます。

ところが予想に反して、オムロン太陽はその年の8月から早くも黒字を実現し、しかも、納品の不良率はほかの工場よりも断然低いという快挙を成し遂げました。これには2つの理由がありました。

まず、一つには、中村先生の確固たる信念と指導です。「失われたものを数えるな、残されたものを最大限に生かせ」という考えに基づいて、障がい者を保護するのではなく、決して特別扱いをせずに社会復帰を後押ししました。これを受けて、オムロン太陽の重度障がい者たちは自律の精神を身につけ、好業績につながったことは明らかでした。

もう一つは、従業員の熱い気持ちです。一真は、オムロン太陽の資本金を一般の工場の5000万円ではなく500万円とする代わりに、障がい者たちにも株主となることを推奨し、経営に参加しているという意識を持ってもらいました。それまで社会的弱者として同情されてきた人たちが、初めて世間並みに働き、月給をもらい、納税をし、しかも株までもって経営に参画できる立場になったのです。このことで気分が一変して働くことに喜びを感じ、やる気が大いに盛り上がったことも業績躍進の原動力でした。

過去には、税金によって養われる立場だった障がい者たちが、税金を払うことに感動すら覚えたというエピソードも残っているほど、オムロン太陽は働く障がい者を幸福にしました。その証拠に、彼らの中には自分の部屋に納税した領収書を飾り、合掌していた人がいたほどでした。

一真はこの体験を通じて、障がい者の幸福は税金で手厚く保護されることではなく、働く場を得て、自主生活をすることこそが最高の幸福であることを確信したのでした。

オムロン太陽から拡がっていった障がい者雇用

このように、オムロン太陽ができて、障がいのある人々が一転して納税者となり、名実ともに社会人の仲間入りを果たすことができたこと。それは、まさに企業の公器性を物語る出来事でした。そして、200社もの企業がしり込みした、リスクの多い「福祉工場」を引き受けて成功させた事実は、常に人の可能性を信じて経営を行なった一真らしい取り組みの成果といえます。

その結果、オムロン太陽の成功と実績は業界でも大いに評価され、これ以降、ソニー・太陽株式会社、ホンダ太陽株式会社、三菱商事太陽株式会社、デンソー太陽株式会社、オムロン京都太陽株式会社、ホンダアールアンドデー太陽株式会社、富士通エフサス太陽株式会社というように、次々に「太陽の家」との共同出資会社が設立され、障がい者の就労機会は大きく増えていったのです。

一真は、後にこう語っています。

「人生を振り返って得た私の信条、信念は、『最もよく人を幸福にする人が、最もよく幸福になる』ということである。人間誰しも幸福になりたいのは当然である。だからといって人を押しのけたり足を引っ張ったりして自分だけが幸福になろうとしても決して幸福にはなれない。それよりも、妻や夫、両親や兄弟姉妹、友人や同僚を幸福にしていくと、いつの間にか幸福な人達の中にいる自分も幸福になっているのである。結局、幸せというものは、直接つかめるものではない。人を幸せにすることの反応として、自分が幸せを感じるものである。周囲がすべて幸せになっていれば当然、自分もいつの間にか幸せになっていく。これは、また商売にもつながっていくのである。つまり、奉仕優先、得意先優先である。これなくしては、企業の繁栄もないし、企業の繁栄なくしてはお互いの幸福もあり得ないわけである。そしてここでついに、私の人生訓と経営理念がピタリと合致したのである。」

オムロン太陽は、まさに障がい者を幸福にすることで一真自身も幸福を感じ、会社の繁栄にもつながり、社会に対する貢献もできて「企業の公器性」の証ともなった事業です。オムロンは一真の理念を引き継ぎ、「われわれの働きで われわれの生活を向上し よりよい社会をつくりましょう」という社憲を軸として、これからも、すべての人々の幸せな暮らしづくりに向けて、取り組んでいきます。

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